今週のお題「外でしたいこと

  1. ピクニック:桜の下でお弁当を楽しむのはいかがでしょう?美しい景色を眺めながら、お気に入りの食べ物を楽しめます。
  2. 散歩:近くの公園や庭園での散歩はリラックスできますし、桜の美しい景色を堪能できます。
  3. カメラ撮影:桜の美しさを写真に収めるのもおすすめです。自然の中での写真撮影は楽しい経験になることでしょう。
  4. 自転車乗り:気持ちのいい風を感じながら自転車に乗るのも良いですね。近所を探索したり、桜の名所めぐりを楽しむことができます。
  5. 読書:公園や庭園で静かな場所を見つけて本を読むのもおすすめです。桜の花びらが舞っている光景の中で、読書のひとときを楽しめます。(by cici)
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この記事の執筆にあたって   

 

 どこから話せばいいのか・・・・・

 今、現在は辺境の某市にて侘しくアパートで一人暮らしです。

 

後述しますが、持っていた高級外車は、もう人手に渡ってしまいました。とても不便ですが、どこへ行くのも徒歩です。

もう還暦も過ぎて足腰にガタがきています。自動車がないと本当に、田舎は不便です。

 

こんな私ですが、令和で四年夏ころまでは、妻、息子の3人で戸建ての小さな家で平凡に暮らしていました。

それが、惨めな今のような暮らしになってしまったのか、今も信じられないです。

 

賢明な読者のみなさんなら、こんな惨めな生活を送ることはないでしょうけど。愚か者の実例として聞いてください。

 

 

時は遡ること四十年前。

元妻と出会いからになってしまいます。そもそも彼女と結婚したことが元凶の始まりでした。・・・・・今、思えば・・・・・もうどうしようもないですけど。

 

私、S氏とさせてください。公立の小・中・高・大とありきたり学生生活を送り、国公立大学といってもレベルが低く、周りの友人たちも、そりがあいませんでした。勉強もちっとも面白くないし、体育会系のクラブに入り殆ど部活動と家庭教師や引っ越しやイベント警備などのバイトとマージャンに精を出していました。

そんな感じなので2年生には、ぎりぎり上がるような状態でした。

そんなことから私の担当のゼミの先生も、絶対、留年するであろうと思っていたみたいでした。

そんな具合でなんとか4年生になりましたが、卒業するためには、朝の1限目から最終の6限目まで、教壇の目の前に陣取り下級生に交じって授業を受講し全部「可」で、なんとかで無事に卒業できました。

けれど、授業と試験勉強のため、殆んど就活ができませんでした。

しかし漸く地方銀行や流通業など3社の内定をいただきました。

時代は、昭和50年代、その時、関東圏の百貨店でしたが、これから西日本で他店舗展開を目指す、勢いのある流通業界に入社することにしました。

 

なんか、私Sのヒストリーみたいになっているみたいですが、嫌悪しないで読み進んでください。

 

そこで、出会ったのが、地元高校卒採用の元妻でした。

私も人並みに学生時代に数はとても少ないですが、恋愛経験がありました。

百貨店なので、周りは女子ばかりで所謂「選り取り見取り」状態でした。

私も見る目がなかったのでしょう。元妻は、今まで付き合ったことの無い18歳の無垢の少女に思えました。

そして元妻は、私を他の女性から触れられないよう振る舞いました。さながら守護神のように。

でも、元妻の隙をみてほかの女の子達とも付き合いました。

それでも、元妻は全然私から離れようとはしませんでした。

所謂、独り占めしないと収まらない性格なのでしょう。

結局7年越しに、成り行きで結婚ということになりました。

 しかし、その「自分のものとしたい」という元妻の欲求は新婚旅行から帰ってきてから直ぐ、驚くべき彼女の言動で露見しました。

 

 当時、新居は実家から車で1時間くらいのマンションを借りました。

 新婚旅行から帰って、私の実家に挨拶に伺いました。元妻も、この時だけは一緒でした。

 実家からマンションへ帰って、暫くすると。元妻は突然狂ったように「私の実母が怖い。怖い顔で迫ってくる。頭が割れそうに痛い、眠れない。」と何度も何度も訴えかけてくるのです。

 そして、実家の父母、親戚等も含めて縁を切ってくれと何度もせがむのです。

 そして、今すぐ実家へ行って縁を切ってくれと狂った様子で迫ってくるのです。

 あっけにとられながら、このままでは収まらないと思いました。

「解ったから落ち着け、今から実家に行ってくる。」と言い残し、独り実家へ車を走らせました。

 実家に着いて,すぐ実父母に、ことの顛末を報告しました。

 実父母は、急に私だけ帰って来て、思いもしないことを言ったので、驚いていましたが、暫くして、「この結婚は無かったことにした方がいいのではないか」と諭されました。

 結婚してまだ2週間も経っていないこの時期に離婚は、現実的ではないのではと私は思いました。

 

 今から思えば、この時が最後の別れのチャンスだった。

 

 時間が解決するだろうという私の甘い考えで、元妻には「縁切りについては、話してきた。」言いました。

 元妻は、とりあえず納得した様子でした。

 その後、元妻は、正月もお盆も私の実家には一切顔を出さず。

それどころか、私が実家に帰ることを快く思ってなかった様子でした。

 もちろん私の祖父母、叔母が亡くなった日にも顔をだしませんでした。

やることが徹底している人間なのだと気づかされました。

 

 そのころわたしは、昭和63年から公務員試験を受け、公務員として仕事をしていました。

 平成元年が私たちの結婚した日でした。

 当時、元妻も保育の資格をとり保母として働いていましたが、結婚と同時に辞めました。

 私としては続けて欲しかったのですが、本人の意思なので、仕方ありません。

 子供は創らないと申し合わせていましたが、元妻が急に子供が欲しいと言い出し、拒む合理的な理由がないので、応じました。

 ほどなくして息子が平成5年に誕生しました。純粋に嬉しかったことを覚えています。出産にも立ち会いました。

 しかし、ここでも元妻の人間性がでました。「子供が出来たことは実家に伝えるな。」産後の最初の言葉です。

嬉しさが苦痛に変わりました。

 

 子供ができて2年が過ぎたころ元妻の母親が脳内出血で急死しました。ここでも元妻の人間性がでました。「元妻の母親が死んだことは私の父母はもちろん私親戚一同に言うな。」と土下座してまで懇願するのでした。

後で義父やら元妻の親戚から私の親族がきていないのを責められました。

元妻はそんなことも知らん顔でした。

義父には、あんたの娘が絶対言うなと土下座までして頼まれたので仕方なく私の身内には言わなかったことを伝えました。

義父も娘「元妻」が苦手なのか、何も言いませんでした。 

 

その後、義父は膀胱がんで入院しました。私は何回か見舞いましたが、元妻は急に自分の父親を見放しました。どいう神経なのか分かりませんでした。

元妻は、父親は最初からいなかったかのように振舞っていました。

 

その後も、私の父母は私の子供を見ることなく声も聴くことなく、

写真すらみることなく。実母は平成22年に、実父は平成31年に逝去しました。もちろん父母の葬儀も私だけの出席です。

私の親族一同から異端の目で見られました。仕方のないことです。父母に孫の顔も見せない、葬儀にも私しか出席しない・・・・・当然の報いです。

 

 話は少し前に戻って、元妻の母の死後のことです。暫くして、元妻の精神は母親の急死で崩壊してしまいました。もとより異常な所が多い性格でしたが、今度は、手に負えないほどの崩壊具合です。息子は未だ3歳なったくらいだったでしょうか。

 

なんと不運なことに、私が難関の管理職試験に合格した時でした。

 組織も出世ポストを用意してくれました。

 読者の皆さんは知らないと思いますが、当時、公務員は月200時間くらいの残業はざらにありました。もちろんボランティアで。

 もし、出世ポストに就けば、元妻の面倒を診ることができないうえ息子のことも心配でした。

 そこで、時間に余裕のある楽なポジションに就けてもらえるようお願いしました。

 今まで散々迷惑掛けられた元妻ですが、廃人の様なまま放りだすことはできませんでした。

 東奔西走して、優良なカウンセラーを探し、診てもらうことが出来ました。元妻も徐々に回復していきました。

そこからの公務員人生は言うまでもなく、どん底です。

自ら、出世を拒否したので当然のことです。

かくゆう私も精神的に参り、精神科に通院することになりました。

 

 元妻のこと、息子のこと、未来の無い仕事のこと・・・・・・・・・・・

 精神科医の出した病名は「うつ病」でした。

 

 うつ は何度も再発しました。40歳過ぎ 50歳過ぎ そして定年退職の前後。

 還暦を迎え、決して多くない退職金をいただきました。

 

また、話は変わるのですが、住居についてです。

元妻が賃貸ではなく戸建ての住まいを欲しがりました。

妻が気に入りさえすれば、私はどこでも良かったので元妻に一任しました。

しかしあろうことか、自分で選んでおきながら、新居に移転してすぐ、「この環境は嫌だ、早くもとの場所に戻りたい。」とまた精神的におかしくなりました。

また、元妻に任せるからということで、再度引っ越し先を一任しました。

58歳でのローンです。月15万円の返済です、再任用では手取も半分以下で、退職すれば、払っていけない状態です。

そこで、一画千金を狙って、投資・投機にかけました。

そこでFXなどの投機に手をつけました。

 

 暫くは順調に推移し、かなりの額まで増やしましたが、その後、レートを引き上げ、大きな勝負にでました。

強気の投機が裏目に出てしまい、多額の損失を出してしまいました。特にFXでの損失が大きかったです。

投機、特にFXは絶対ダメです。恐ろしい勢いでお金が解けてしまいます。

 

未だ株はいいとしてもFXは絶対やってはいけません。

 

しかし、未だ取り返せる余地もありましたので、友人のK氏に

500万円の借金を頼みました。

 私も自信があったので10パーセントの利益付きで一年間借りることになりました。

友人は、資産家なので、快くすぐ4月に500万円貸してくれました。

 

これで、やっと盛り返せる。そう考えていました。

 

 ところが、その8月の初めにK氏が、急に「利殖のためのいいマンションが出てきたので、即、500万円返還してくれ」と言ってきたのです。

 もうすでに500万円は、FX口座で長期運用をしていましたので、返すことはできませんでした。

 すると、K氏は、豹変し、闇金の取り立てのごとく取り立てを開始しました。

 まず、自動車を売れ、今運用しているお金を全部寄こせ。

 一年猶予はあると思っていたので、驚きました。

 有り金、約470万円ほど返しましたが、残りの額をすぐ返せと迫ってくるありさまでした。

 私には、もう殆ど預貯金もなく、住宅ローンも払えない状況でした。

 K氏は、私の元妻にも、電話・メールで執拗に催促しました。

 住宅ローンも払えない状況なので、家を売却する話となりました。ローンもまだまだ全然返してない状況でしたので、家を売っても、僅かなお金しか残りませんでした。

 

 しかし、家を出て行く日は迫ってくるばかりでした。

 当初、こんな事態になっても「3人で頑張っていこう。」と元妻は言ってくれました。市の福祉にも相談に一緒に行き打開策を相談しました。こんな事態になったのは、全て私のせいです。

そんなことは勿論自覚していました。心配掛けないよう借金のことは黙っていました。投機もまずまずだと言っていました。

元妻には寝耳に水の話でしたでしょう。けれど、「3人で頑張ろう」と言ってくれた時は、涙が止まらないほどうれしかった。

    しかし、家をひきわたしの10月中頃にひかえ、お金のない私     は、ネットで働き口を探しながら、あらゆる金融機関に借金ができるかどうか探しました。まだ、150万円程度の運用資金があればどうにかできると考えていたからです。しかし、消費者金融もどこも貸してくれる金融機関はありませんでした。

  それだけ金融機関はFXなどの投機に警戒していたのでしょう。

  そうこうしているうちに、元妻と息子は玄関前のガレージに引っ越し用の荷物を準備し始めました。まだ行先も決まらないのに何故か不可解でした。

 

  その頃、「3人で頑張ろう」は突然、反故にされたようで、私に辛くあたってきました。

離婚届けの用紙に署名・押印を迫ってきました。しかも鬼気迫る勢いで喧嘩腰に。

そのころから「元妻は一度も私のために生きてきた事はない。息子のためだけに生きてきた。息子は私の一番大事な自分の命よりも大切な宝だ。」と何度も何度も叫ぶようになりました。

また、精神に支障をきたした様子でした。

そうこうしているうちに家から退去しなければならない日の

10日ほど前、元妻子は忽然と姿を消しました。有り金全部持って。

 私は、その日、何か嫌な予感がして家じゅう元妻子を探しました。

そして私は、ガレージの荷物が気になり玄関へむかいました。しかし何故か玄関が開きませんでした。裏口に回ってガレージに向かいました。

もぬけの空でした。玄関は中から開かないように、「重し」までしてありました。

 あっけにとられました。

 二人は示し合わせて出て行ったのでした。

 家の中の家具、ベッド、大きなテレビ、冷蔵庫、大きな洗濯乾燥機も、大きなソファーも全部そのままに、乱れて散乱した二人の部屋もそのままに・・・・・・・・・、

 私は、二人の裏切りに呆然となり、大きな声で泣きました。

 そして今も泣きながら原稿を書いています。

 良いことも、悪いことも、楽しかった海外旅行などの思い出も全部そのままに、写真のアルバムもみんな放って、出ていきました。

 携帯電話にも出ないので、ラインして、どうして・・・・・・

 やがて、ラインも閉じられ、独り取り残されました。

私には、家中の荷物をすべて撤去し、明け渡しの準備をしなければなりません。私の次に住む場所も探さなければなりません。

 泣いて、恨んでも、日にちは経っていきます。

 結婚からの35年間はなんだったのだろう今も自問しています。

 食べるものも残していったので何か食べるものはありましたが、食べることは出来ませんでした。またその日から眠ることもできませんでした。

 絶望して、濃いお酒とロープを持って山に出向いて、うろうろ死に場所を探しに行きました。しかし、どうしても死に切れませんでした。

 ただ山中で泣き崩れるしかありませんでした。雨が降って居ました。

 傘も持って無かったので、びしょ濡れで、気が付くと、誰もいない家に足が向いていました。  

 気が付くと、私は少し眠ったようでした。夕方になっていました。

 死にきれないと思えば、家の片づけと、次の住居をさがさなければなりません。

 お金は財布に少しの千円札と小銭だけです。有り金は全部ふたりが持っていったからです。

 そんな時、ある金融機関が融資をしてくれると言ってくれました。

 わたしは、すがる思いで150万円を借りました。

 そのお金で家の完全清掃と引っ越しの代金、家の明け渡し日に間に合わなかった違約金 確か7万円でしたか を支払いました。

 しかし、色んなストレスでうつ病は悪化し、全然眠れませんでした。

 病気のせいで何もする気力もなく、漫然と生きてきましたが、借金の返済、家賃、光熱水費も支払いが危うくなってきました。

そのため、某市の福祉へ生活保護の申請をすることにしました。

そんな中、地元裁判所から元妻が離婚の申し立て書を送ってきました。日付は令和5年2月になっていました。

住所は伏せてあったので、どこにいるのかはわかりませんが、生きていることは確認できました。

 もう離婚は成立しているとばかり思っていた私は驚きました。

  元妻の要求は、年金を前倒しで支給してもらえ、そして、その半額を支払えというものでした。調停人によると、元妻の法的権利だとのこと。しんどい中、何回も裁判所へ出向きました。元妻は来所していませんでした。代理人に弁護士が面談にきていました。

 結局、年金を半額支払うことで令和5年11月に調停が成立しました。

令和5年10月から生活保護を受けました。しかし、金融機関への返済とK氏の残債、クレジットカード 殆ど元妻が使ったもの の残債などの支払いはできそうもありませんでした。

年金の前倒し支給も申請しました。

しかし、それでも返済は無理だと思われ、法テラスに相談すると、自己破産するしかないとのことで、現在裁判所と弁護士と調整中です。

 今後、年金の半額では生きていけないと思いますので、仕事を探していますが、63歳の年齢で元公務員では雇用してくれるところは皆無のようです。

 昨年末から職探ししていますが、どこも雇用してもらえませんでした。

 うつ病のことは隠して面接に行きましたが、元気のなさが見え見えなのだろうと思います。

 年金の申請は5月なので、その分も合わせて支給されましたが、その余裕分は生活保護費へ返還しなければならず、加えて弁護士費用22万円も支払いが必要でした。

 今月4月は偶数月の年金支払いの月ですが、幾ら振り込まれるのか分かりません。もはやぎりぎりの状態です。

 こんな状況でも生活保護費の加算支給はないとのことでしたので、もはや生きていくことも困難になりそうです。

 なんとか仕事を見つけて生きてゆきたいと思っています。

足腰もガタがきて肉体労働は無理そうです。自動車の運転手も酷い方向音痴で無理っぽいです。パソコンのスキルもたいしたことがなくて、ブラインドタッチではタイピングはきついです。

 もし私が自死しても、親類縁者とは、なん年も音信普通ですし、当然元妻子は何も感じないと思います。むしろ、迷惑がると思います。

泣いてくれる人なんか誰一人いません。

亡骸を引き取ってくれる人もいません。

生き続ける意味がみいだせません。